高取焼の興り

「高取焼」は、慶長年間(1596〜1615)に筑前国から興り、国主黒田長政の朝鮮出兵に際して、連れ帰った朝鮮人陶工八山がその始祖です。慶長五年(1600)最初の窯を現在の鷹取山の南麓に築きました。これを永満寺窯といいます。鷹取山にちなみ、高麗の縁にて姓を「高取」と改めされ、「陶名」を変じて「八蔵」とあらたむべき旨をおおせ賜りました。その後、内ヶ磯、山田、白旗山、小石原鼓、東皿山、西皿山と窯を移動して続きます。

そして、廃藩置県の後、一旦は閉窯しましたが、戦後、高取静山を中興の祖として、現在の「高取焼」の陶工へと伝統が受け継がれています。江戸初期にかけて幕藩体制が安定した時点で「茶陶国焼」としての位置づけのもと、特に黒田藩の保護の下に発達したやきものが「高取焼」です。

茶人・小堀遠州と高取焼

千利休の弟子で将軍茶道指南小堀遠州の指導を受け、「遠州七窯」の筆頭に挙げられていることからも、茶陶としての高い地位とその作品の芸術性の高さは、世界に誇るべきものといえます。廃藩以後の茶陶高取は、領主の保護はなく、必然的に自立自営を余儀なくされ、明治以降、宗家直径(小石原鼓系)と小石原中野系、福岡西新系(東皿山・西新系)の三派に分類され、その技法はそれぞれに特色づけながら継承されています。


高取焼の特徴